第三話:ピノキオと赤樫
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「突然どうしたんです?」
「いやあ、仲間ってやっぱり大切だと思ってな」
「はあ、そうですか」
 任務一時中断との連絡を受け、麦畑に囲まれた機関の本部に戻った俺は、満足に荷解きせずにシモナの部屋に向かっていた。夜行列車を利用してきたので、時刻は午前6時。シモナも寝間着姿で、まだ寝ていたようだった。
「悪いな、起こしちまって」
「いいえ。私もあなたを起こしたことがあったでしょう?」
 確かに、起こされて朝食を作らされた気がする。
 電気ポットの湯でコーヒーを淹れるシモナは、どこか楽しげだった。
「どうぞ、インスタントですが」
「ありがとう。暖まる」
 部屋の間取りは俺の所と同じで、調度品も無いし、余計な家具も無い。本棚には古びた聖書と、最近購入したと思わしき真新しい料理本。掃除はよく行き届いていて、何となくシモナらしい部屋だと思った。
「どうでした?」
「疲れた。仕事は進まないし、別の仕事では危ないところだったし」
 椅子が一つしかないので、シモナがそこに。俺は床にあぐらをかいてベッドを背もたれにした。
「そうですか」
「何で嬉しそうなんだよ」
「嬉しいですよ。大きな怪我も無く真久が帰ってきたのです」
 涼しい顔で言ってのけやがる。そんな態度が当然だというように。
「あー、なんだ。あれだな」
「心配しましたよ」
「ん、そうか」
 と、シモナが立ち上がり、俺の方に来る。彼女は俺がもたれているベッドに座った。
 いやに距離が近い。日が明ける前の薄暗さは、俺の実家の地下室を思い起こさせた。否が応にも鼓動が高鳴ったりする。
「それで、もう一つの心配事ですが……」
 しゃらりという金属音。あの街で俺の隣に居た女が化物と対峙した時に響くこの音は、鞘鳴り。
 シモナは憂いを帯びた目でグラディウスの刀身を撫でる。暫く見ないうちに剣の刃毀れは修復され、傷一つ無い刃は以前より美しかった。
「何があったか話しなさい。嘘は聞きたくありません」
「はい」
 肯くしか無いでしょうよ。


 事件の様子とか妙な男の事、クラウディアとの戦いを織り交ぜて話したことの主題は、グリム。コーヒーを丁度飲み終え、日も昇っていい感じな時間に話し終えた。
「いい気はしませんが、良しとしましょう。
 いい気分ではありませんが」
「何だよ」
 シモナは剥き身のグラディウスを鞘に収めた。俺のコーヒーカップも持ってシンクに向かう。
「偶に夢想します」
「おう」
 カップを洗うシモナは背を向けながら言葉を続ける。
「あなたの善意が、全て私に向いたらいいのにと」
「む、う」
「嘘です。いつまでもお人よしのあなたで居てください」
 言葉に詰まった俺に、シモナが発したのは皮肉。
「褒めてねえぞ。お人よしって」
「褒める気はありませんから」
「覚えとけよ。いつか酷いぞ」
「ええ、どうぞ」
 いい気はしないと言いつつ、心なしか彼女は楽しそうだった。
 カーテンを開けると、視界一面に広がる麦畑が朝日を浴びている。



「あの家にいるような気分になったよ」
「ああ?
 …………何処だここは」
 午前中は忙しいから十三時になったら部屋に来てくれという社長の言葉に甘え、夜行列車であまり眠れなかった分も自室で眠ろうとしていた筈なのだが、どういうわけか全く見知らぬ場所に居た。
 見渡す限りずらりと本棚が並ぶ空間。綺麗に整頓された本棚の間から遠くを眺めると地平線が見えた。何処までも続いていそうなこの空間は、どうやら図書館か何からしい。ありえないけど。
「君の実家の記憶は、最後の方は彼女ばかり出てくるからね。その記憶を読んだ僕にも懐かしく思えるというわけさ」
「いろいろ言いたい事はあるけどまず一つ。ここは何処だ」
 図書館に良くある八人掛けの机と、八脚の椅子。どれだけ広いのか分からないが、何となく中心部だと思われる場所は本棚が無く、その椅子と机が置いてあった。本棚の並びは薄暗いが、ここだけは明るい。
 そこにいるのは言うまでも無くカシマ。黒いフレームの眼鏡を机に置き、図鑑のような本を組んだ足の上に載せてコーヒーを飲んでいた。
 机の上には何時の間にやら盆があり、コーヒーとサンドイッチがある。
「何か、シモナ君と露骨に態度が違わないかい?」
「当たり前だ。いいから答えろ」
 プリンディジに居た時は少しも役に立たなかったからなあ。
 本来は飲食厳禁な筈の図書館で何をしているのかという思いもある。
「君の頭の中だよ。今までは僕が君の見ている世界に出向いていたからね。今日は逆に招待してみた」
「よし分かった。ここから出せ、もう起きる」
 二度寝なんかするもんじゃない。
「まあ、ゆっくりしていってよ」
 そう言ってサンドイッチを齧る。
「お前それ俺の栄養だろ? 俺が腹減るんだろ?」
「返そうか?」
「気持ち悪いから辞めろ」
 口に手を入れると、咀嚼した形跡の無いサンドイッチが姿を現す。何でも思い通りか。
「じゃあ頂くとするよ」
「何なんだよほんとにもう」
 いつも何を考えているか分からないカシマだが、今日はやることなすこと意味不明だ。
 何時までも相手のペースに乗っているのも嫌なので、何とかしてみることにする。
 力技で。
「あ、それはちょっとやめ」
 燐光を発する拳で床を一撃。あわよくばこの仮想現実を壊そうという目論見だったが、それは叶わなかった。
「お、おおお、おお」
「大丈夫かい」
 椅子から立ち上がったカシマが、頭を抱えて床を転げまわる俺の元へ。自分の頭の中なんだからこうなるのは分かりそうなものだが、それに気付かないのが俺ということか。カシマに背中を擦られていることもあり、相当みっともない。
「気をつけないとね?」
「うるせえ……お袋かお前は」
「いや、君の母親はこういうキャラじゃないでしょ」
 そうだけど。確かにそうだけど。
 カシマから母性を感じるのも嫌なので平気な顔をして立ち上がることにする。カシマも椅子に戻り、俺はその向かいに座った。
「あー痛え。
 もういいや、ここに居てやるから何か用ならさっさと言えよ」
「あ、開き直った」
「何とでも言え。さっさとノンレム睡眠に入りたい」
「たは、嫌われたもんだね」
 脳内の全てが読めるカシマのことだ、意地を張っているだけなのにも気付いているだろう。
 相変わらずニヤけているカシマがコーヒーを飲み干した。図鑑も畳むと、机に肘を突いて指を組んだ。大きな黒い目に、不機嫌そうな俺が映っている。
「敏幸さんのことを知りたくないかい?」
 ほんの少しだけ真面目な表情を作ったカシマの言葉が俺を凍りつかせた。
 こいつは祖父の中にも居た。祖父を読むことは出来なかったらしいが、祖父の見たものや感じたものは知覚出来たらしい。それが本当なら、俺の知らない祖父を知ることが出来る。
「興味はあるだろう」
「いや、でも、なあ?」
「罪悪感はあるよね。君が死んだ後、自分の見ていたものを見られたら嫌だろう。
 同時に興味もあるはずだ。これから退魔で食っていくなら、大きな力になると思う」
 迷う。が、しかし答えは決まっている。
「死人は死んだままにしといてくれ。不憫だ」
 見たいことは見たい。だが見てはいけないことは分かっている。死後に自分が見られたらどうする? 呪い殺すよな。それくらい駄目なことだよな。
「そうか」
「急にどうしたんだ。今までくだらない事しか言わなかったのに」
 カシマは答えない。口元に組んだ指をもっていき、なにやら思案しているようだ。
「生前の僕が占い師だったのは知ってたね? 占い師というよりは祈祷師に近かったけど」
 それは祖父が記した文書で見た。もっとも、祖父はカシマのことを樫魔だと勘違いしていたが。
「祈祷師だった僕の言うことだから信じて欲しい。
 率直に言うと、君の身に危機が迫っている。
 だから寝ている間に力を付けられるなら、それに越したことはないと思ったんだ。
 どうだい、考え直さないか?」
「直さない」
 迷わないように。間違えてしまわないように即答する。
「君らしいよ。
 優しく、強い。だから樫魔にも勝てたんだろうね」
「お前は無条件に褒めるから微妙な気分だ」
「気に入ってるからね」
 俺をか?
 訪ねようとしたが、カシマが薄くなっていることに気付いた。カシマだけではない、机も椅子も本棚も、図書館全体が薄くなり、透け始めていた。
「じゃあ、次に会う時は君の世界だ。気をつけてね、くれぐれも無茶をしないように」
「ああ、ありがとな」
「その言葉、いつも待ってるんだよ?」
 礼を待っている。彼女のその言葉を最後に、俺の目に見えるものは全て消え去った。
 何処からか響くのは目覚まし時計の音。目覚めの時らしい。
「ん、起きるか」


ЯR


 避けきれなかった。
 咄嗟にシーツを跳ね上げ、襲撃者に被せる。寝ていたと思っていたのに急に反応した標的に驚いてか、襲撃者はシーツに視界を奪われる。
 体当たりで敵を壁にぶつけると、着の身着のままで廊下に出る。二度寝なので幸いにも服を着ていた。下は黒いジャージで、上は同色のタンクトップ。鎖帷子が無いのが厳しい。
「い、いきなりカシマの占い的中かよ……?」
 廊下の非常ベルを押して愕然とする。作動しない。襲撃者の仕業のようだ。退魔機関に奇襲をかけるなど馬鹿なことがあってたまるかと思うのだが、現実は残酷だ。
 振り下ろされるナイフをかわしきれず、首に大きな傷を負ったのも現実。
 血を流しすぎたため意識が朦朧とし、廊下の壁を背に崩れ落ちる。最後の力を振り絞り、タンクトップを首に巻きつけたことに意味があったかどうか。
「グリムには、手を、出すな」
「嫌だね」
 俺の部屋から出てくるのは、グリムを襲っていた背の高い男。
 カシマの忠告を生かせなかった自分を憎む暇も無く、意識を手放した。



 止めを刺す事を養父に禁じられているギコウは真久から視線を外す。
「それでも、治療が間に合うかどうか」
 意識を失う前に首に布を巻いたのは大したものだが、今でも出血は続いている。放っておけば死ぬだろう。
 問題ないと判断し、ギコウはグリムが居る地下へ向かうために廊下を歩む。
 と、その歩みを遮る者がいた。右手に缶コーヒーを持ち、ぼろぼろの軍服を着た男。ギコウと同じイギリス系のような名前だが、純血の中国人。
「敵と判断していいな」
「お前は準備運動くらいにはなるんだろうな?」
 両刃のナイフを逆手に持ったギコウはその右手を前にし、下段に構えた。無手の左手は胸の前で緩い拳をつくっている。
 対するのはハロルド・鳳。長身痩躯のギコウより少し背の低い、中肉中背の寡黙な男。社長のコネで組織に入ったと噂されているが、その実力は構えを見れば自ずと分かる。
 膝を曲げ、腰を低く落とした磐石の構え。両手を含めた上半身が大気をかき混ぜるように旋回した後、柳のように落ち着く。背筋は伸ばされ、左手は手刀を作り前方に伸ばす。腰の前に構えられた右手も手刀。
 機動力を感じさせない完璧な守りの構えだ。化物の速さと力を持つギコウにとって人間用の守りの構えなど格好の餌食のはずなのだが、彼は一向に仕掛けない。
「拳法じゃないな。仙術か」
「見破った奴はお前が初めてだ。ただの化物なら闇雲に突っ込んでくるものを」
「面白い」
 確かに目の前の男の言うとおりだ。ただの化物なら侮って突っ込み、カウンターによって一撃で仕留められるだろう。
 この中国人はそれだけの実力を持っているとギコウは評価し、戦法を変える。
「こんなもの、あっても邪魔なだけだ」
「ほう」
 ナイフを投げ捨てた。徒手となったギコウは軽快なステップを刻み、巨体にあるまじき速さでハロルドのもとへ向かう。初撃はセオリーどおり長い腕による左ジャブ。後には右ストレートと右回し蹴りへと繋ぐ攻撃だ。
 対するハロルドの動きはゆっくりとしたものだった。左の開手によってジャブを内側に弾き、右膝を突き出す。
 何をやっているのだという思いがギコウの脳裏をよぎる。
「っ!?」
 自分の身体が浮いているのに気付き、力の抜けた鳩尾に膝が突き刺さる。そこでやっと、自分が何をされたか気付いた。
「終われ」
 既に右の手刀は振り上げられている。ただの手刀ではない。先程の膝蹴りのように、退魔の気が練りこまれた仙術の打撃だ。化物であるギコウにとっては、それはもはや斬撃に等しい。練気入りの膝蹴りによって体内に構築された養父の細胞は痙攣し、制御することも出来ない。
 完全に舐めてかかっていたと、ギコウは心中で独白。その首筋に、魔を断ち切る手刀が打ち込まれた。
 ハロルドの手に残るのは鈍い手応え。
「どういうことだ」
 手刀を喰らってから反撃の蹴りを放ち、床を転がって逃げたギコウにハロルドは動揺を隠せない。目の前の、人型の化物は自分の退魔の攻撃を受けてまだ生存している。その事実を認められない。
 鳩尾を軽く擦っただけのギコウは自らの胸を指差し、告げる。
「スイッチだよ」
「何?」
「父さんに貰った力を使う化物の身体と、今までに鍛えた技を使う人間の身体。僕は自分の意思で切り替えることが出来る。
 この切り替えさえあれば僕に死角はない」
 自分の仙術が通用しない化物。その恐ろしさに、ハロルドの頬を一筋の汗が伝う。それでも彼は退くわけにはいかなかった。仙術だけを頼りに生きてきた者が、それを捨てて逃げるわけにはいかない。そもそもそんな心構えでは仙術を修めることなど出来ない。
「コオオォォ……」
「無駄だよ、次の一合でお前は死ぬ。確定事項だ!」
 呼吸法で意識を整えようとするハロルド。ギコウはそれをさせまいと化物の速さで接近。カウンターで練気の一撃を喰らわないように人間の身体にスイッチし、貫手でハロルドの胸を狙う。
「練気など、仙術の基本に過ぎん」
 体内の気ではなく、相手の気を操れるようになって一人前。相手の気に同調し、気取らせずに誘導する。それは敵が化物でも人間でも同じ。意思のある生物ならどんなものでも意のままに出来る。
 そう、仙術の真髄は気の操作。
「せぁああっ!」
 突き出される貫手に左手を沿え、上方向に捻るように誘導。次に右足で相手の左足に気を捻じ込み、床に縫い付ける。
 自分の力によって胴体が捻られたギコウ。彼の頚椎が破壊される硬質的な音が、レンガ造りの廊下に響いた。
 足を通じて伝わってくる感触に、ハロルドは勝利を確信する。


「危なかった。あと少し切り替えが遅れていたら」


 ハロルドは声を上げることも許されなかった。捻られた勢いを利用して、ゴムのように戻ってきた上体は驚嘆すべき速度を備えていた。回転体の先にあるのは握られた拳。
 馬鹿な。
 ハロルドの呟きは、彼の胸骨が破砕される音に掻き消された。


ЯR


 足を引きずるようにして地下からの階段を上る社長を追い抜いたグリムが見た光景は、彼女が叫ぶのに値することだった。
「マぁウス!」
 グリムがマウスと呼ぶギコウの足元には胸の中央を陥没させたハロルドが倒れているが、彼女の意識はそんなものに向いてはいない。
 壁を背にして廊下に足を投げ出しているのは、侮蔑の対象から師匠、そして相棒になった男。今なお首から血を流し続ける桑野真久だ。
「お前如きが真久に何をした」
「随分とこいつに御執心のようだなあ。ええ?」
 ギコウはグリムに見せ付けるように、真久の頭を踏みつける。
 グリムはあえて冷静になろうとは考えず、拳を振り上げてギコウへ肉薄する。相棒と思えと言った真久なら迷わずこうすると考えたからであった。
「熱くなるなよグリム。お前らしくも無い。
 お前は戦闘人形として作られたんだろう、忘れたわけじゃないな」
 ギコウは顔面への拳を掴み、説き伏せるように言う。その姿はグリムの知る彼ではない。もっと恐ろしい何かだった。
 グリムは拳を掴む指の逆関節を取りにいくが、指はピクリとも動かない。いくら人間のときに勝てても、化物の力を得たかつての仮想敵に勝てるわけが無い。
「最初から全力でいく。勝手に死ぬなよ」
 ギコウが放ったのはただの左ジャブと右ストレート。ワンツーと呼ばれるその基本技を、グリムにはかわすことができない。頭部でもっとも硬い額で受けるという苦肉の策をとるしかなかった。
 頭を割られたような痛みが走り、割れた額から血が滴る。
「おいおい、ちょっと考えれば分かるだろう」
「つうっ……!」
 対人戦では有効な受け方も化物には通用しない。
 人外の化物は速く、強く、硬い。人間が戦うには付加要素が必要なのだ。
 それはシモナのグラディウスであり、ハロルドの仙術であり、真久の意思の力である。グリムはそれらを持っていない。
「そらっ」
 故に化物と人間の間にある壁を越えられない。
 全力でいくという言葉通り、ギコウは容赦の無い攻撃を始めた。正面から突っ込み、拳の連撃を見舞う。グリムが左右に逃げようものなら回し蹴りで中央に戻し、また拳を打ち込む。グリムの知らないこの戦法はフルコンタクト空手のもの。打たれ強さと突進力を兼ね備えた者にはこれ以上無い最適な戦法だった。
 拳の、蹴りの一つずつが常人ならば卒倒クラスの攻撃。グリムもクラウディアとの戦いという経験が無ければ一瞬で倒されていただろう。
 しかし、“少し”も“しばらく”も、大した違いはない。少し耐えたグリムも、しばらくしか持たない。
「弱くなったな」
 言葉と共に上段への回し蹴りが放たれる。グリムの十字受けは間に合ったが、ブロックごと跳ね飛ばされ、硬いレンガの壁にぶつかる。
「お、ぁ……が……」
 脳を揺らされたグリムは立ち上がることが出来ないが、仮に脳震盪が無くてもどうだろうか。受けに用いた肘・膝から下は言うに及ばず、脇腹や鎖骨、腿・肩・額・頬・爪先まで、痣や裂傷だらけだった。
「こんな奴に俺は負け続けてきたのか。
 三歳で貴族に攫われてから、十三歳でお前が完成するまでの十年間」
 ギコウはグリムの髪を掴んで、小柄な彼女を吊り上げる。顔を近づけ、鼻先の触れるような位置から言葉を続けた。
「お前に分かるか」
「…………」
「薬で肉体が変化していく恐怖が分かるか?
 お前に負けるたび、ブリーダーにどんな目にあわされていたか分かるか?
 懐かしかった家の記憶が苦痛と薬物で消えていく苦しみが分かるか?」
「似たような、ものだっただろう……あたしも、お前も」
 ぎり、と。髪を掴む手に力が篭った。
「お前には自分の意思など無かっただろう。だが俺にはあった。どんなに歪まされても、元になっている自我があった。
 それが催眠で変えられていく。自分の意思さえ自由に出来ないようになっていく」
 優勢のギコウが苦しそうに、搾り出すように言葉を紡ぐ。喉の傷により歪んだ声は、半身を裂かれた獣の慟哭のようだった。
「お前が憎かった。お前が居なかったら俺は普通に生きていけたのに。お前さえ居なければ、お前さえ!」
「マウ、ス……?」
 グリムは自分を殺そうとしている存在に訪ねる。
「何故泣く」
「お前には分からないだろう。人形のお前にはな」
 苦しそうに顔を歪めたギコウの目に浮かんだ涙は止まることなく溢れ、頬を伝って顎から落ちる。
「憎かったさ。
 俺よりも幼い頃から、俺より辛い目にあっているお前が。
 この世界で只一人、俺と同じお前が。俺と共感できるお前が。
 …………不憫で、憎くて、愛しくて仕方が無かった」
 髪を掴んでいた手が離れ、両手で首を絞めにかかった。
「それが、お前にかけられた催眠か」
 仮想敵は対象を憎んでいなければ、本気の戦いができない。貴族に雇われたブリーダーの提案により、当時六歳のギコウに残酷な催眠が施された。
 すべてをグリムの所為にし、憎めと。
「ああそうだ、こうなることは決まってたのさ。ずっと前からな」
 化物の力ならグリムの首など簡単にへし折れるだろう。この状況は催眠に反抗するギコウが作り出した泡沫の夢のようなものだ。
「そうか」
 目を閉じたグリムが言った。
「誰とも繋がっていなかったと思っていた。そんなあたしに意思の力など使えるはずが無いと。
 そうだな、あの頃はお前がいた。敵なのにあたしを愛していたというお前が」
「ああ。
 だがもう終わりだ。俺はお前を殺して自由になる。枷から逃れるんだ!」
 グリムは自分の首を絞めるギコウの腕に手を添える。
「解放してやる」
 目を開いた彼女は身体の奥から湧き上がる力を感じた。その力を身体に巡らす順路は、既に彼女の身体に存在している。あとはスイッチを入れるだけだ。

「お前の死でな」

 青く光るグリムの手がその力を発揮する。掴んでいたギコウの腕を、そのまま“千切り取った”。
「あっあ、あぁああああ!?」
 飛び退いたギコウは化物となった身体に再生を命じるが、意思の力で千切られた手首から先は蘇らない。肉体操作で血管を閉めると、恐怖と驚愕を混ぜ合わせた顔でグリムを見た。
「これが真久の使う力か」
 両手に持ったギコウの手が青白い光に焼かれ、消し炭のようになる。
「悪くない」
 炭のようになった手を放り捨てたグリムは拳を作り、失った手を構えるギコウに迫る。
「俺の、俺の技を盗みやがったな!」
「そういうふうに作られたからな」
 経絡と解剖学を応用し、腕を千切り取る。そんな芸当は人外の力が無ければ不可能なはずだったが、意思の力が化物に対してだけ可能にした。
 グリムは先ほどの借りを返すように高い回し蹴りを放つ。
「ぐ、おぉおっ!」
 傷口から鮮血を撒き散らしながらその蹴りを受けたギコウはグリムの懐に潜り込んで鳩尾に突き上げるような肘を打ち込んだ。
「少しなら耐えられるな」
 意思の力は体内にも働き、化物の攻撃に対して大きな効果を発揮する。
 それならばとギコウは人間の身体にスイッチし、膝を狙って突き込むような蹴りを出す。
 その蹴りは難なくかわされ、体勢が崩れた身体に三発の拳が入る。ギコウは大きく腕をふるって牽制し、距離を取った。
「逃げるな」
「せあっ!」
 攻防の中でギコウは思考する。
 自分の体術が通用しない。化物の力が通用しない。
 化物の力と速さを備えた蹴りはグリムにかわされ、背後の石壁を砕くだけ。肉体を人間にシフトし、自分に最も近い位置にある左腕の経穴を腕から突き出た尺骨で抉りに行くが、伸ばした腕に蹴りを合わせられる。
「マウス、お前は勝てない」
 折れた骨は化物の力で直に回復したが、目を逸らした隙に、青白い足甲が腕を砕いていた。人間と化物、両方を壊されては腕の再生は期待できない。
「戦えば分かる。お前は意思の力を使う者を倒すためにつくられたみたいだな。
 敵が意思の力で来た時には人間の身体を用いて体術で対抗し、敵の体術には化物の力で圧倒する。だけど―――」
 桑野真久ならその戦術で倒すことが出来ただろう。だが、今目の前にいる少女は違う。この少女の強さは自分が一番良く知っている。
「お前が化物の力で来たら、あたしは意思の力で対抗する。お前が体術を使うなら、あたしはそれを圧倒する技術で立ち向かおう。
 お前は真久には勝った。
 でも残念だな、あたしはお前の天敵だ」
「黙れ……黙れ黙れ黙れぇえ!」
 化物の力で、自分の人間としての技術の粋を尽くした肘打ちは、青白い光を纏った腕に受け流された。体勢の崩れた自分の足をグリムの足が刈り、身体が宙に浮かぶ。
「終わりにしよう」
 浮いた身体を更に突き上げる、グリムの膝蹴り。
 それを引き金とした後に続く機関銃のような連撃は、ギコウの目には青い光の濁流としか捉えられなかった。


ЯR


「やったのか?」
 物陰から窺っていたらしい社長が駆けつけ、ハロルドの手当てに入る。いつの間にか廊下の隅に移動させられた真久には、既に止血が施されていた。
「他の機関員はどうした」
「皆仕事だ。やられたよ、今日ここに居たのはハロルドと真久君。それに一般の職員だけだ。手薄な日を狙われたんだろう」
「内通者……?」
「かもしれん。とりあえず救急車を呼ぶ。
 その男はどうするんだ?」
 社長が指す先には、全身を砕かれて両手を失ったギコウが倒れている。
「急所は外してある。あたしのように保管すれば良いだろう」
「いや、そういうわけにも……」

「そいうわけにもいかんだろう。返してもらうぞ」

 社長の言葉を引き継いだ男は、ハロルドの治療をする彼の背後に立った男だった。グリムにすら気取らせず、いつの間にか出現していたその男は白いスーツと白いソフト帽に身を包み、サングラスとヒゲで顔を隠している。
 足が不自由なのか、杖に寄りかかって立っている感じだった。
「誰だ」
「声が震えているぞグリム君」
 男は壁に手をついて身体を支え、杖を振るった。軽く、本当に軽く首筋を打たれただけの社長は、それだけで意識を失う。
「お前は何者か聞いている」
「そこに転がっている男の養父さ」
 養父。
 ギコウを化物にした張本人。
「殺す」
 青く光る拳で殴りかかったグリムは、その動きを読まれていた。まるで自分からぶつかっていくかのように喉を杖で突かれ、意識は保ったまま身体の自由を失う。
「さて、息子を回収する前に挨拶をしておかないとな」
 廊下の隅にいる真久を杖で突き、目覚めさせる。
 活殺自在。まるで手品師のような男だとグリムは思った。
「久しぶりだな、桑野真久君」
「……誰だお前は」
 目覚めたばかりの真久は状況を理解することも出来ず、倒れたグリムとハロルド、社長。そして襲撃者の姿を見る。
「お前が親玉か?」
「そうだとも」
 まだ自分が誰か気付かない真久に男は笑い、杖を持っていない左手で顔を覆った。おかしくてたまらないというように。
 男が笑っている間に真久はふらつきながら立ち上がり、グリムの元へ歩く。
「動けるかグリム」
「動けるように見えるのか」
「じゃあ休んでろ」
「休むのはお前だろう」
 真久はグリムの言葉を無視し、首根っこを掴んで先ほどまでの自分のように廊下の壁にもたれさせ、自分は杖を持つ男と対峙する。男はその様子を楽しげに見て、これから起きることを妄想していた。
「で、お前誰だよ。体調が万全じゃないから帰って欲しいんだが」
「そうか。そうかそうか、まだ気付かないようなら私の変装も捨てたもんじゃないな」
 男は帽子とサングラスを取り、付け髭を剥ぎ取る。現れたのは先ほどまでの姿からは想像できない二十代後半の東洋人。それでも真久は気付かない。
「人違いだろ? 俺はお前なんて知らんぞ」
「そうだろうな。君達には姿を見せていなかったから」
 男の目を直視した瞬間、真久の背筋に虫が這ったかのような悪寒が走った。
 男はまた顔に手を当てて笑う。
「これなら、分かるだろうなぁオイ!」
 男の掌と顔から、無数のムカデが湧き出した。



 ムカデが体中を覆い、また男の身体に潜り込んだ後、残ったのは白い人影だった。目と口以外の全てを包帯で覆い隠し、その上から医者や研究者が着る様な白衣を纏う男。
 俺は忘れたくても決して忘れることの出来ないその男の名を口にする。
「正光……新山正光!」
「遅え、遅えよ気付くのがぁ! 手前二回も俺と戦っといて、一回は俺を殺してるのに何で気付かんのよおいぃい!」
 気付くわけが無い。一度死に、今は投獄されている筈の男がこんな所にいるなど。自分は出血多量の怪我人。ハロルドも負傷。社長は戦力外。グリムも無理。シモナは居ない。
 まずいかもしれない。
「何でお前がここにいるんだよ。おかしいだろうどう考えても!」
「あれだけの地震があったんだぁ、刑務所も留置場もぶっ壊れて犯罪者は逃げ放題。おまけに警察は救助で忙しい。逃げ出せないほうがどうかしてるっつーの」
「カシマに力抜かれて自分では立てないくらいだったじゃないか」
「何の為の武術だ? 呼吸法と身体操作でどうとでもなるさ。今でも回復しきってねえから杖が離せないけどな。
 まあ、杖っていっても」
 カチ、と。正光が杖の取っ手にあるボタンを押した。杖の先からは何かの液体が滴る細い刃が飛び出る。十中八九毒液だ。
「便利なもんだけどな」
「(戦えるか? いや、血が足りないだろう実際。じゃあ何とかして逃げるしかない。この際ハロルドは社長に任せるとして、グリムを引きずって何とか……)」
 今の正光は杖無しで立っているが、それでも以前より大分遅くなっているだろう。失血の酷いこの身体でガキ一人引きずって逃げることは可能かどうか。
「やる気になったな?」
「ああ、地獄に送り返してやるよムカデ野郎」
 一発だ。意思の力を込めた拳を一発入れる。体調を考えるとそれ以上は無理だ。だが今の正光は弱っている。何とか一発入れられれば逃げることも出来る。
 杖で突きに来た所にカウンターを合わせて一発入れ、グリムを担いで逃げる。これしかない。
「そんじゃまあ、予定よりちょっと早いが構わねえ。死んでもらうぜ」
 正光の肩辺りから出たムカデが俺の背後の廊下にアンカーのように打ち込まれる。それを引き戻す勢いを利用して、槍を突き込む様に接近してくる。
 思ったより化物の力を取り戻していて驚いたが、動き自体は読みどおり。踵を上げ、前に出る用意をする。武器の右拳は既に光らせてあった。
「ひぃあはああああぁあっ!」
「うるっせえよ化物!」
 骨に守られていない鎖骨の間を狙いにきた杖を左手で流すと同時、左足を斜め前に踏み込む。あとは、突きを外され体勢の崩れた正光に右の拳を打ち込むだけだ。
 だが敵の動きは予想を超える。突きを外した体勢のまま足を投げ出す。どういうつもりかと考える間はあったが、ムカデのアンカーを利用して急旋回する動きに対応出来たのは偶然というほか無い。
「(身体が勝手に動いた!)」
 グリムとの戦いは確実に自分の力になっていた。アンカーを使って背後から突き出される杖に、打ち払い受けをしなから振り向く。今度こそ、杖を外されて無防備になっていた。ムカデのアンカーは背後にあり、次はない。
「せやっ!」
 気合と共に打ち出した右拳がいつかのように正光の眉間を射抜いた。


 やはり完全には力が戻っていなかったらしく、正光はうめき声も上げずに倒れたままだ。俺も正直立っているのさえしんどいが、あとはグリムを引きずって逃げるだけ。
「できる限り力貸せ、逃げるぞ!」
「あ、ああ。一応やってみるけど」
 何をされたのか、全く力が入っていなかったグリムの身体だが、少しは動くようになったらしい。今の俺にはグリムを担いで走るような体力は無いので、肩を貸しあうようにして歩く。歪な二人三脚のようだが、敵は倒れているんだから追ってこれないはず。
「真久、あいつは誰だ? お前を知っているようだった」
「じゃああの背の高い男は誰だ? グリムがどうとか言ってたが」
「あとで話す」
「ああ、とりあえずここから離れよう。何処まで行ったら安全だ?」
 安全なところなど無い。
「え?」
 聞こえるはずが無い。
 後ろで倒れているはずの正光の声が、前から聞こえるわけが無い。
「面白い演出だろう?」
 前方。廊下の角から現れたのは背の高い男を担いだ新山正光。振り返ると、正光が倒れていたはずの場所には何も無い。
「何故俺にその力が通じないかはその嬢ちゃんに聞きな。息子と戦ったんなら分かっているはずだ」
 打つ手なし。意思の力は使えても、血が足りなくて身体が動かない。グリムも万全ではない。この戦力で、化物の中でも飛び抜けてイカレているこの男と戦えるわけが無い。
「よお、グリム。どっちかが囮になるってのはどうだ? 決め方は年功序列で」
「馬鹿の言うことに付き合えるか」
 杖の先に付いた刃が、大きな傷のある首に突き刺さった。冷たいものが入り、暖かいものが流れ出す感触。
 死ぬよりは意識を手放す方が早かった。





 他愛ない幕切れだ。
 支えあっていた真久が意識を失ったので自らも崩れ落ち、正光を見上げる形になったグリムは思う。目を閉じ回想すると、昔のことはあまり思い出せなかった。色の着いた記憶はここ最近のもの。武道場や麦畑で戦った記憶や、名も知らぬ森やプリンディジの路地・館で戦った記憶。
 いずれの記憶にも真久がいるのが、何か気に入らないと感じた。
「はっ、泣き叫べよおい。黙ってる奴を殺しても面白くねえんだよ」
「ならなおさらだ。大人しくしているから早くやれ」
 どう足掻いても勝てないと悟れば生き恥を晒すべきではない。グリムは作品として作られた際にそう指導された。長い年月で彼女の中に蓄えられた知識と技量は正光に勝てないと告げていたし、実際そうだっただろう。
「たまーにいるんだよな。悟った奴がよ」
 正光は毒液の滴る杖をつまらなそうに構えた。
 グリムはあと少しもしないうちに、その刃に貫かれて死ぬだろう。
 刃を止めるものが居ないのなら。
 死んだはずの男が目覚めないのなら。

「あー。やっぱり重力は好きじゃないなあ」

 男は目覚める。自身以外の存在の力によって。
 その存在は立ち上がり、ありえないという表情をする正光やグリムには構わず、廊下の窓ガラスに身体を映して自身を見る。
「あーあ、大事な身体に傷つけちゃって」
 ギコウにやられた傷を止血していた粘着テープをはがす。血が吹き出るかと思われたが、出るのは血ではない。木の根のような物が幾筋も飛び出し、傷口を修復していく。三秒もしないうちに首にあった二つの傷口は根によって縫合された。首を回して異常が無いか確認。
 縫合が終わると血潮を両手に集め、それを整髪料にして髪を後ろに撫で付ける。赤黒く髪を染めた真久は以前のものではない。足元のグリムは正光よりもずっと禍々しい気配を放つようになった真久から這うようにして逃げる。
「ば、けもの……?」
「ああ、僕も君に見られたくは無かったんだけど仕方なくてね。あとで真久がフォロー入れると思うよ」
 真久、いや、真久の身体を駆るカシマは拳と開手を構える。その構えは真久より洗練されていて、もし彼の意識があるならば祖父の構えと同じだと言っただろう。
 構えたカシマの五体が滲み出すように赤い光を発するのを見た正光は身体の震えを抑える事ができない。
「知っている。見たことがあるぞその光を! 地震の際に起こった謎の発光現象って言われてたが…………お前か、お前らだったのか桑野真久! 正真正銘の化物、カシマぁ!」
「化物とは酷いな。今の僕は単なるヤドリギに過ぎないよ。真久君あっての僕さ。
 だから」
 この身体を傷つけた者に報いを。
 その言葉と共に踏み出したカシマの一歩に、正光はギコウを投げ捨てて後ずさる。
「何だよ、お前地震の夜に殺されたんじゃなかったのかよおっ!?」
「宗旨替えしてね。いや、心は最初から桑野の家にあったけど。ああ、君にこんなこと言っても分からないね。
 そんなことより樫魔の力には驚くよ。完全に力を回収したと思ったのにまだ化物でいられるなんて。根の一本でも残ってたのかな? もう一度無力感を味わうがいいさ」
「きひっ、ひひひ。もう、もう二度とあんな思いは御免だ。俺の力は返さねえ、この力はもう俺だけのもんだ!」
 正光が二つに分割した杖の両端から刃が飛び出す。それを持つ正光の両手の肘辺りが切れ、ムカデで胴体に繋がれた長い鞭となる。合計四刃の凶器は圧倒的なリーチを持って多角的にカシマを狙う。
 対するカシマはただ歩むのみ。立ち止まることなく、暴刃の荒れ狂う正光の射程内を歩く。
「刃の数はたった四つ。しかも同時に来るのは二つまで。もう少し頭を使ったらどうだい?」
「うるっ、せえぇえええええ!」
 急に右腕が軽くなった。そう感じた正光はカシマが持つものを見て愕然とする。両端から刃の出た棒。自らの右腕に握られているはずのものだった。
 気づいた時には笑みを浮かべるカシマが眼前に迫っている。
「くっ」
「遅い遅い、判断が遅い!」
 嬉々として突き出された刃は下段。左の膝を貫かれた後、返す刃で右のアキレス腱を切られていた。
「おまけだよ」
 伸ばしすぎて隙だらけになった両手をまとめて貫かれ、床に縫い付けられる。
「終わりだね」
 まずいと、追い詰められた正光はそう思考する。完全に力を取り戻してから来るべきだった。ある意味で自分の身体はクラウディアの物に近い。衰弱した人間の肉体をフレームにして、化物で覆って無理矢理動かしている。化物と人間の切り替えは出来るが所詮は表面的なもの。内臓まで人間に切り替えたらその時点で衰弱して倒れる。
 そうなる訳にはいかない。憎い奴らを殺すためにこの地へ来たというのに。真久やシモナばかりか、カシマまでいるというのに。
「逃げるしかねェか」
「へえ、どうやって?」
「トカゲの尻尾切りって言うだろ?」
 包帯の臍の辺りから飛び出た刃が縫い付けられた腕を切断し、転進した正光は走り出す。
 無論、それを逃がすカシマではない。
「傷ついた足で逃げたところで……」
 二の腕の辺りで切断され、残された腕の左手から刃を取ったカシマはそれを正光の背に投擲。敏幸の技量で投げられた武器が外れるはずが無い。
 しかしどんな物にでも例外はある。
「父さん!」
 全身の主要な骨を砕かれて動けないはずのギコウの手助け。トカゲの尻尾切りと言った言葉の真意は、尻尾にはギコウも含まれていたのだろうか。
「ちいッ」
 投擲がタイムロスに繋がった。傷ついているとはいえ腐っても化物。正光は廊下の窓ガラスを割り、窓の外に身を投げる。
 直に追いかけようとしたカシマだが、その足が止まる。
「ガス欠、か」
 これ以上動くと真久の命が危ない。
 とりあえず外敵が去ったと判断したカシマは、テレビの電源でも切るかのように自分の意識を落とした。




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