第一話:東へ
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 ____________十年前・ルーマニア農村


 ベルディーノ・ロッシが駆けつけた時、その村はもう終わっていた。今から何をしても決して好転することは無く、これ以上悪くするには爆撃で村を消し飛ばすくらいしか無いような事態だ。
 埋葬された死体が吸血鬼として蘇り、村人は一人残らず殺されるかグールにされた。
 それがこの村で起きた、いや起きていることだ。死者が蘇ることはこの地方では何十年かに一度発生しているが、これほどまでに大規模なものは初めてだろう。農村でなく都市部で起きていたなら、事態の収拾は不可能だったに違いない。
「この数なら、なんとか刃は持つか」
 そう言ってベルディーノは、腰の後ろに差していた剣を抜いた。剣は、柄頭から切っ先まで、黒一色のバスタードソード。片手剣と両手剣のいいとこ取りをするべく作られたその剣は、本来なら取り回しよく見えるものだが、線の細い彼が持つと、いささか重そうに見える。
 茶髪に青い目の、長身痩躯の優男。それが、三百を超えるリビングデッドに剣一本で単身立ち向かう、ベルディーノ・ロッシだ。
「さて、これだけのことが出来る敵なんだ。がっかりさせないでくれよ」


 一時間後、村に来た機関員が見たものは、地を埋め尽くす死体と燃え盛る家。その中で一人悠然と佇むベルディーノの姿だった。


「お疲れ様です。首尾は」
「上々」
 暗い緑色のジープから、同色の服を着た機関員達が降りてくる。彼らはベルディーノに敬礼をし、戦闘結果を訊ねた。
「こいつが吸血鬼だ。墓に刻んであったとおりなら、名前はスタン・テオクティスト。享年は二十五歳」
 ベルディーノはそう言って、足元に転がるものを蹴飛ばした。それは、四肢と、歯を歯茎ごと切り取られた吸血鬼。生まれたばかりの天然モノだ。
「これが我々の計画の要となるわけですか」
「ああ。だが、厄介なことがある」
 この男をして「厄介」とは、一体どんな恐ろしいことがあるのかと機関員は臆したが、ベルディーノが近くの家の納屋から出したものを見て拍子抜けした。
 ただの人間の子供だ。年の頃は十歳くらいだろうか、金髪に青い目の女の子供。目は開いていないが、胸の上下から呼吸をしていることが見て取れた。
「この子が何か」
「報告には村人全員が死ぬか眷属になったとあるが、こいつは生きているし、人間だ。おまけに一部始終を見ている」
「つまり……」
「ああ、口封じが要る」
 さて、どうするか。ベルディーノは呟き、子供を見下ろす。
 真諦に欠損は見られず、頭髪などの様子から大きな病気も無い。人相から判断すると、意思は強い方。これで身寄りさえなければ。
「こいつは俺が預かる。三年もすれば使い物になるだろう。情操教育にも使えるかもしれん」
「しかし……ただの子供ならともかく、これは吸血鬼と同じ村の出自。計画に不安定な要素を入れるべきでは」
「こいつが原因で失敗するようなら、所詮そこまでの計画ということ。そのときはまた新しい計画を作るさ」
 もとより、全ての決定権はベルディーノが握っている。彼がそう言うのなら、この“聖絶機関”に逆らえるものなど居ない。
「撤収だ。一応死体を見回ってくれ。牙の伸びた奴とか、身体に変化のある死体は潰せ。表向きは疫病で処理するからな」
 こうしてこの農村は、ルーマニアという国の地図から消えた。


 それから、二年の月日が流れる。


 四つの銃口から放たれた無数の弾丸が男の身体を穿つ。肉が裂け、血管が断裂し、骨が砕け、内臓に重大なダメージを追う。
 普通の人間ならば。
 この男にとっては、ただ身体に穴が開いたというだけのことだ。
「やれ、ギニーピッグ」
 主の命を受け、身に纏った黒いコートを穴だらけにした男が駆け出す。狙うのは四つの命。カトリックに仇なす、愚かな人間達。
 一人目、裏拳で頭を吹き飛ばした。二人目、首を掴んで引き抜いた。三人目、二人目の首で頭を潰した。四人目、両脚を引き抜いた。
 十秒もしないうちに、コートの男は敵を無力化した。
「よくやったギニーピッグ。あとはこっちで処理するから、お前は帰れ。
 シモナ、ギニーピッグを連れて行け」
 ここは新興宗教団体の過激派が潜伏する廃ビルだった。戦闘員は全て無力化され、生きているのは両足を失った一名のみ。濃緑色の制服を着た男たちは生き残った人間が尋問が終わるまで死なないように止血を施し、死体を片付ける。
 黒いコートを着た吸血鬼、ギニーピッグの元へは十二歳ほどの金髪の少女がやってきて、視線で彼を促した。
「帰りましょうか、シモナさん」
「はい」
 金髪の少女と黒いコートの男は、“太陽の下”へと歩いていった。
 吸血鬼を洗脳し、戦力にするというギニーピッグ計画は、素体の吸血鬼を洗脳するだけでなく改造までした。元はスタン・テオクティストという青年であり、今はギニーピッグという名の吸血鬼である彼には、日光だけでなく、銀や大蒜、十字架や聖灰など、魔を滅するあらゆるものが効果を持たない。
「随分と頼りになる仲間ができましたね」
「……ふっ、まあ、そうかもな」
 機関員の言葉に、計画の責任者であるベルディーノが肯く。彼らの視線の先には、春の陽光の下を連れ立って歩く二人が居た。表情や態度は少し歪だが、雰囲気だけなら兄妹のように見えなくも無い。機関員達は弱点の無い吸血鬼であるギニーピッグを恐れながらも、その温厚な人柄を慕ってもいた。
「だが気をつけろ。あれはあくまでも表に焼き付けた人格だ。自分が吸血鬼だと知ったら、どうなるか分からんぞ」
「承知しております。これまでどおり、特異体質の人間ということで口裏合わせを徹底しておきますよ」
「ああ。
 おいキアラ。尋問を始めるぞ。アイスピックを持って来い」
「わかりました」
 グレーの虹彩を持つ茶髪の少女がベルディーノにアイスピックを渡す。
 彼は足を失った敵に近づくと、それを使って、たこ焼にそうするように片目を裏返した。ビル中に響き渡るような悲鳴が発されるが、気にするものは誰も居なかった。



 一年後、殲滅機関の本部には死体の山があった。
 死後間も無いというのに死体は全て変色していた。血液を全て抜き取られたゆえの失血死なのだから、当然のことだ。
「何だこれは……。おいシモナ! 何があった!?」
 連絡を受けて駆けつけたベルディーノは、死体の山の中で、ただ一人無傷のシモナを発見した。
「ギニー……ピッグ、が、怪我をした私の傷口を舐めて………そしたら」
「糞っ!」
 忘れていた。と、ベルディーノは思考する。
 シモナはギニーピッグが誕生した村の出自。シモナの血縁の血をギニーピッグが吸っていて、シモナの血の味でそれが呼び起こされ、洗脳が解けた。それがあってもおかしくない。
 迂闊だった。迂闊すぎた!
「奴は今どこにいる」
「後ろです!」
 ベルディーノは振り向き様にバスタードソードを突き出した。黒い刃は返り血で真っ赤になったギニーピッグの胸板を貫く。
 ギニーピッグはその程度では止まらない。貫かれたまま、ベルディーノの首筋に噛み付いた。



 それから更に、七年が経過した。
 滅びた村で拾われた少女が二十歳になり、故郷より遠く東の島国で光を纏って戦う青年と出会い、争い、心を通わせた、その年だ。
 人間の施した改造の所為で人間に殺せなくなった吸血鬼は、暗い地中から這い出て来てしまった。
 それの侵食は既に始まっていた。
 昨日まで通じたはずの電話が繋がらない。
 昨日まで使えたはずの電車が運休している。
 昨日まで居た人が居ない。
 昨日まで居なかった人が居る。
 水面下で如何なる努力が行われようとも、事態は隠し通せない段階まできていた。


ЯR


 馬鹿な、と。
 大きな、本当に大きな声が社長室に響いた。俺はその、大声を出した人物を恐る恐るといった感じで見た。
「この一連の騒ぎの原因があれだと言うのですか!? ありえません、一から詳しく説明してください!」
 社長に噛み付くような勢いで詰め寄っているのは、金髪碧眼の細身の女性。俺のパートナーであり、大事な女であるシモナ・グルック。
 頭に来ているときでも静かに怒りを表現するようなシモナが、ここまで激昂するのを見たのは初めてだ。
「分かった、分かったから取り合えず落ち着いてくれ。簡単な話なんだ」
 社長が諸手を挙げてシモナをなだめる。
 今この社長室にいるのは、社長、シモナ、俺こと桑野真久の三人。社長と仲が悪いグリムは来ていない。
「簡潔に言うとだ、ここ最近の、村民一斉消失事件の犯人は一体の吸血鬼だ。名をギニーピッグというその吸血鬼は訳あって封じられていたが、それが解き放たれてしまった」
「ですから、それが何故かと聞いているのです!」
 咳払いのあと、社長が言う。
「あれが封じられていたのはサンタ・メルシオ大聖堂。新山正光に襲撃された教会だ」
 俺が習っていない言語の、恐らくはスラングであろう言葉をシモナが叫び、天を仰いで額を押さえた。
「ギニーピッグは強力な吸血鬼で、やっとのことで封じているという感じだった。新山正光があの教会の内部で大規模な破壊を行った所為で、建物の気の流れが狂い、封印が解けてしまったのだろう。殺戮の際にそこらじゅうに血液が散布されたのも関係があるかもしれない」
 社長の所為でもないのに、彼はシモナに弁解するように言った。
「……それで、対策はどうなっていますか。言っておきますが、奴の恐ろしさは新山正光とは比べ物になりません」
「それが、だねえ……」
「まさか何の対策もしていないと!?」
 言葉を濁す社長にまたシモナが詰め寄った時、社長室のドアが荒々しく開けられ、ダークスーツに身を包んだサングラスの男達が入ってきた。
 闖入者の数は五人。先頭の一人以外は大柄の体格、オールバックにした髪形の白人男性という、同じような背格好で、明らかに一般人ではないことが見て取れた。
 リーダー格と思われる、他の四人よりも一回り小さく、十は歳が上の男が口を開いた。
「劉社長、通達しておいた書類を受け取りに来ました」
 やけに尖った、威圧感のある声だった。言葉は丁寧であったが、それを少しも感じさせない語調だ。社長は気の毒なほどに怯え、机の上においていた数冊のファイルを手渡そうとする。
 と、それをシモナが遮った。
「社長、おそらく私の考えている通りのことだと思いますが、説明してもらえませんか」
 その問に答えたのは社長ではなく、リーダー格の男だった。
「君の思っているとおりだとも。あの吸血鬼を追うのは君らではない。我々教皇庁だ」
 教皇庁。数々の言語と共に頭に催眠で植え付けられた記憶にその言葉もあった。確か、全世界のカトリック教会を統治する組織のこと。一応は十字教カトリック系の退魔組織であるこの『浄化機関』も、その傘下にある。
「シモナ君。これが私のとった対策だ。この組織は常に人手不足で、リビングデッドを生み出すような吸血鬼の相手など出来ないんだ。浄化機関は、君の養父が仕切っていた頃のような…………殲滅機関とは違う」
 社長がファイルを渡す。古びて、所々に血の跡がついているファイルには、ギニーピッグとかいう吸血鬼の情報があるのだろう。
「聞けば、君はムカデ退治で随分酷い怪我を負ったようじゃないか。よく養生するといい」
 リーダー格の男はシモナの肩に手を置き――――――

「ふざけるな」

 喉元にグラディウスを突きつけられた。
「一度しか言わないぞ。よく聞け下郎。
 あれは、私の、獲物だ。誰にも渡さない」
「な、なななにをする貴様!? お前ら早くこの女を何とかしろ!」
 リーダー格の男は慌て、部下に指示を出す。
 シモナに一番近い男が自分の腰に手を伸ばしたので、その中途半端に開いた右手を蹴り上げ、抜こうとしていた拳銃を代わりに抜いてやった。
「お前ら、女を撃とうっていうのか?」
 大きすぎて手に合わないその銃を男に向けると、突き指したらしい右手を左手で包んだままホールドアップした。
「シモナ、なあ、落ち着けよ。取り合えず剣を下ろそう。銃の暴発とかあったら洒落にならん」
 俺に向けられた銃は二つ。シモナへは一つ。シモナは両手で構えたグラディウスをリーダー格の男の喉の前に保持したままだ。
 シモナはともかく、俺なんかは異教の猿とか思われてそうだし。こんなところでは死にたくない。
「ギニーピッグとかいうのが何をしたかは知らないが、なあ、頼む」
 沈黙。痛いほどの静寂が社長室に満ちた。
「…………」
 シモナはグラディウスを鞘に納め部屋を出て行く。止める者は誰も居なかった。

 悲痛な面持ちで去っていくシモナを、止める事が出来なかった。

「シモナ」
「声が相当情けないよ、真久君」
 身の内の存在に言われても、否定することが出来ない。
「随分と社員教育に力を入れているようじゃないか。教皇庁の者にこの扱い。査定に響くぞ劉社長」
「も、申し訳ありません。これから何かと便宜を図らせてもらいますから!」
「必要ない。我々が動けば三日で片が付く。それでは失礼する」
 リーダー格の男は俺の手から拳銃を引っ手繰ると、男たちの先頭に立って部屋を出て行った。
 社長室には俺と社長だけが残される。
「一体、ギニーピッグってのは何者なんですか」
 俺の問にかえって来たのは非情な答。
 自己嫌悪と共に社長室を飛び出した。



「シモナ!」
 最悪の予想とは違って、シモナは自室に居た。ベッドに座り、窓の向こうに広がる麦畑を見ている。因みに最悪の予想とは、既に一人で吸血鬼退治に出発したというものだ。
「真久。どうしました?」
 表情の無い瞳がこちらを向く。彼女自身が昔言っていた、迷える羊とは、このような状態を言うのだろうか。
「悪かった。すまん。事情を何も知らないで、落ち着けなんてことを」
 シモナは迷える羊状態のまま答えた。
「謝らなくて結構です。あの時は私も取り乱していました。師も友人も、村の人達も既にいないというのに、復讐を遂げようなどと」
 俺も、断片的にはシモナから聞いていた。彼女の師と、妹も同然の友人は吸血鬼になり、彼女を襲ったと。俺が葛西を倒せずに腑抜けて居た時、シモナが一喝してくれたのはその経験からだった。
 社長の言葉を思い出す。
『ギニーピッグというのは、この組織の前身である殲滅機関が所持していた吸血鬼だ。吸血鬼を洗脳して戦力にするという計画の産物でね。殲滅機関が施した改造の所為で、日光や銀・大蒜・十字架・サンザシ・聖灰など、魔を滅するあらゆるものが効果を持たない。
 そういう、とびきり最悪な吸血鬼だ。
 そいつはシモナ君の全てを奪ったと言ってもいい。シモナ君が十歳まで暮らしていた村を滅ぼし、その三年後には彼女の父や妹同然の人間も』
 畜生。生きて傍にいてやると宣言したのに。一番シモナを分かっていなければいけない俺が、シモナの邪魔をした。仇を討とうとする彼女に水を差した。
「お前は俺と一緒に、俺の仇の樫魔と戦ってくれたのに、俺は……」
「いいんです。魔を討つのはいい、しかし復讐はいけない。師もそう言っていました」
 シモナがベッドに立てかけていたグラディウスを抜く。初めて見た時と違い、錆は落とされて刃こぼれも無く、刃は研ぎ澄まされている。
「この剣をくれた時にそう言っていました。この剣を使っていたのは、聖人と呼ばれた祓魔士。魔を断ち、弱気を導く人格者だったその祓魔士は、伴侶を殺された後の復讐から、修羅道に落ちた。
 剣に正義以外の物を宿すな。師はそう言って、話を締めくくりました」
「じゃあお前は……」
「あれは、教皇庁に任せます」
 俺は何と言えばいいのだろう。自分の意思を殺しているに違いないシモナを、どうしてやればいいんだ。
「なあシモナ。しばらく休みでも取ってどこかへ行かないか?」
 結局、こんな誤魔化すようなことしか言えなかった。
 殺された彼女の意思に命を吹き込むことが出来そうにないから、せめて気を紛らわして欲しい。その思いから来た発言だった。

 この先に待ち構えている事など知らずに、俺はそう言ってしまったのだ。


ЯR


 ぱたん、と。辞書のような重い本が閉じられる音。その音で、半分夢の中にいた意識が覚醒した。凝り固まった首を回しがてら辺りを見回す。ここは、大きなテレビの方を向いた長椅子がいくつも並べられた部屋だった。首を横に向けると、俺が座る窓際の長椅子に、本を閉じる音の発生源も座っていた。それは、重そうな本を膝の上に置いた、十代半ばの茶髪の少女。
「涎」
「ん、おう」
 弟子にして相棒、体術面では師とも呼べる少女、グリムに指摘され、涎を拭う。
 グリムは閉じた動物図鑑を脇に置くと、積んである本の中から今度は『海の生き物』と書かれた図鑑を開いた。
 一連の出来事で幾許かの人間らしさを手に入れたグリムが興味を示したのは、子供が好きそうなものだった。即ち、自動車などの乗り物だとか、動物、変身ヒーローなど。よくよく考えてみれば、子供が好きそうなものというよりは、男子全員が一度は好きだったものリストみたいだ。
 ボロボロになった図鑑を見ていると、実家の本棚を思い出す。全く同じような状態の、同じような本が家にもあるのだ。
「真久、今何時か分かるか」
「二時」
「イタリア時間でか?」
「あー、そうだな。このあたりは何時なんだろうな」
「残り時間がどれだけあるかが分かればいい」
「分からん」
 はてさて、一体どういう経緯でこんなことになったのだったか。休暇をとって出かける先が、我が故郷御園市になってしまったのだ。
 確かに一度帰省したいとは思っていたが、約半年で実現するとも思っていなかった。イタリアから飛行機でフィリピンへ。そこからカトリック関係の船へ乗せてもらい、海路で日本へ。
 そんなわけで、俺とグリム、シモナは洋上にいた。
「飽きたのか?」
「いや」
 俺は飽きた。だがグリムは違うらしい。
「ただ、早く見たいと思っただけだ。お前の国をな」
「忍者も侍もいねえぞ」
「馬鹿にするな。それくらい知っている」
 澄ました顔で言う。
「じゃあ何だ? 寿司か芸者か切腹かすき焼きか漫画かアニメか桜か柔道かカブトムシか」
 と、列挙していくうちに反応があった。
「カブトムシか」
「何のことだ」
「向こうにはヨーロッパサイカブトしかいなかったからな。つーかあれはコガネムシと同レベルだよな」
「…………」
「今は八月だから、実家の近所じゃいくらでも取れるだろう。少子高齢化が進み過ぎな田舎だしな。
 採りに行くんだったら案内してやるが、スズメバチには気を付けろよ。カブト採りに行くと結構出くわすんだ。あいつら凄えからな。寒くなるとミツバチの巣を襲うんだが、塵取りに山積みになるくらいの死体の山が出来るんだ。大きさもコクワガタくらいありやがるからな」
 グリムはそっぽを向いているが、そわそわと落ち着きが無い。
「く……クワガタは、どうなんだ?」
「コクワとミヤマ、ノコギリは普通に採れる。オオクワガタはいない。ヒラタはすっげえ珍しいけど、いるにはいる。あと面白いのは、水生昆虫か。タガメとかタイコウチとかミズカマキリとか」
「ちょっと待て、ミズカマキリだと? 水中に、カマキリがいるのか?」
「ああ、カマキリの仲間じゃないけどな」
 グリム陥落。精神的にはまだまだ子供だから、好奇心に負けるのも仕方ない。親戚の子供を誑かすような感じで、実家近くの昆虫事情を説明してやった。グリムはその間、普段のようなクールぶった態度を失い、精神年齢相応の顔をして、実に素直に話を聞いていた。
「で、だ」
 ひとしきり話をすると、グリムが言った。
「シモナのことはいいのか」
 痛いところに深く抉りこむような問。せっかく忘れていたというのに。
「あー……」
「見るからに沈んでたぞ。何があったか知らないけど」
 ギニーピッグというあいつにとっての仇が復活してから、シモナはずっと塞ぎこんでいる。故郷や、師と妹分の仇が野放しになっているというのに、他ならぬ師の教えで復讐できない。その無念はどれほどのものなのだろうか。
「悩むくらいなら行け。こんな所にいる場合か」
「でもなあ、何を言ったらいいか」
「あたしの時には、そんなに慎重だったか? どうせ駄目元でやるだけやろうって感じだったんだろう。それなのに、シモナに臆するのか。
 いいから行け」
 グリムに追い払われる。だがまあ、いい機会かもしれない。とりあえず踏ん切りはついた。
 左の掌に右拳を打ちつけ、いざシモナの元へ。


 色を黄から赤へ変えた陽光が、金色の髪の修道女を照らしていた。俺は銀幕の中にでも入り込んだような気分になり、視線を外すことができなくなった。
 客室にいなかったシモナを探して、甲板に出た俺が見たのは、夕日の中一人佇むシモナだった。
「…………」
「真久。どうしました?」
 欄干にもたれていたシモナが振り返り、固まっていた俺を見て問う。
「見惚れてた」
「ええ、綺麗な夕日ですね」
「いや、お前に」
 その言葉にシモナは目を丸くする。
「何を急に」
 彼女は目線を太陽から少し下げて海面を睨みつけ、俯く。愉快だ。
 さて、と腹を決める。
「ごほっ。なあシモナ、ちょっと聞いてく……」
「真久、目を閉じてくれませんか?」
「え?」
 俺の言葉を遮り、シモナが言う。しかも、目を閉じてくれだと?
「何で?」
「聞くだけ野暮というものですよ。何をするかなど、分かっているでしょう?」
 信じられないほど妖艶にシモナが嗤う。喉が勝手に唾液を嚥下し、大きな音を立てた。
「それとも――――――」
 信じられない出来事は続く。シモナが修道服の襟(襟というかスカーフというか、それらの一体化したものというか、とにかくあの白いの)を外したのだ。しかも、黒いジャンパースカートのような修道服の、胸骨の中央辺りまである胸元のボタンは全て外されていた。
 さっきよりも大きく喉がなる。
「あなたから、してくれますか?」

 ヤバイ。これはヤバイ。シグナルレッド。状況を色で表すなら濁りない赤。脳内で赤色灯が回る。

「真久、来て下さい」
「ああ」
 俺は理性と本能の命じるままに、真っ赤に光らせた拳を放った。



 両手足の光の色は、本気であることの証。化物を滅するだけの青ではなく、カシマによる身体能力向上も兼ねた赤。その色の光で打たれた存在は、狙撃された死体のように頭を半分吹き飛ばした姿になっていた。
 その姿のまま、そいつが立ち上がる。
「何故、私がシモナ・グルックでないと?」
「露出し過ぎたことがお前の敗因だな。シモナの胸には俺がつけちまった十字傷がある。一生消えないやつがな」
「なるほど」
「それに、あまりにも脈絡が無いだろう。シモナは剣士だ。動きでも何でも、流れを大事にするさ」
 そして、こちらからの問。
「で、お前は何者だ化物。人に化けられて、頭半分吹っ飛んでも死なないなんて、そんな奴は初めて見る」
「ハハハハハッ。どうやら貴方は、思っていたよりずっと愉快で、そして厄介な人間のようだ。いいでしょう、名乗るのは久しぶりだ」
 化物は人の形をした血の塊のような姿を経て、一瞬で身体を再構成。甲板の上に現れたのは、黒いコートを着て同色のソフト帽を被った、大柄の若い男だった。中途半端に伸びた髪は灰色で、温厚そうな目の中の虹彩は黄色い。
 たっぷりと沈黙に場を支配させてから、男は言った。

「本名、スタン・テオクティスト。今は、ギニーピッグと呼ばれています」

 ギニーピッグ。モルモットという意味の言葉。目の前にいるのは、ギニーピッグ計画のモルモットであった男。シモナの師と妹分、故郷の仇にして、最近発生している村民一斉消失事件の犯人。
 心と頭、体技を一つに。俺は明確な敵に襲い掛かった。
「らあっ!」
 初撃、引き金となる一発は、右下段足刀を囮にした右裏拳。
 コメカミを打たれ、視界を揺らされたギニーピッグに追い討ち。左右の脇腹と鎖骨に拳を入れ、側頭部へ左の手刀。その手刀をすぐ掴みに変え、敵の耳を捕らえる。
 耳を引っ張り頭から体勢を崩して、肋骨に膝を、後頭部に肘を打ち込む。
 右手で奴の右手首を取り、左下腕は脇の下へ。足を差し替えながら、右手を引き、左手を押す。そのまま一回転して勢いを付けると、日差しで赤く染まる海へ押し投げた。
「っしゃあ!」
 拳に残る手応えは確かなもの。肉体を崩壊させながら海に散るギニーピッグの姿を夢想する。
 だがしかし、ギニーピッグが描く放物線は、水面間近で急変した。
「ハッハハハハハッ! 手が早い人だ。そして強い! 意思の力って言うんでしたっけ? 中和しきれないかと思いましたよ」
 蜻蛉の飛ぶような音がする。奴は足首にそれぞれ四枚の羽を生やし高速で振動させ、空中に直立していた。意思の力も打撃も効いた様子が無い。
「おいおい……」
「そう気を落とさなくていい。私にはどんな攻撃も効かない。何をやっても殺せないんですよ!」
 夕日に照らされた黒い影が高笑いをしている。まるで悪夢を形にしたような光景。笑えない。
 だが笑えないなりに、必死でやら無ければならない。
「ああ、身構えなくていいですよ」
 腰を低く落とした迎え撃つ構えをとった俺に、ギニーピッグが言った。
「今日は様子見に来ただけです。また日を改めて死合ましょう、日本の退魔士よ」
 そう言うと、奴はいくつもの断片に分裂した。良く見れば、それは蝙蝠だ。無数の蝙蝠は嘲るように旋回すると、東の空へ飛んでいく。
 途端に、膝の力が抜けた。欄干にしがみ付き、荒い息をつく。
「畜生、何だよあいつ……カシマ並みかよ」
「何だろうね彼は。樫魔から力を得ていた時の僕や、この前の新山正光とは違う。妙な感じがした」
 視線を上げると、カシマが欄干に腰掛けていた。少しは気候を考えろという赤いコートの裾と、黒く艶やかな長髪が潮風になびいている。容姿は大人びて落ち着いているのに、どこか無邪気で幼いものを感じさせる、いつものカシマだ。なんか嫌なシモナを見た後だから、いつもと変わらぬカシマを見るとやけに落ち着いた。
「また随分と黄昏時が似合うな。綺麗なもんだ」
 そんな言葉が、口をついて出た。
 カシマは目を丸くしている。俺も、自分自身の発言に驚いて似たような表情をしているのだろう。
 発生した間がおかしくて、俺は苦笑する。
「ありがとう、凄く嬉しいよ。でもそういう台詞は、あの娘に言ってあげないとね」
「あ?」
 目を細めて笑うカシマが視線で示すのは、甲板に出てきたシモナ。相変わらず沈んだ顔をしていて、カシマと違い、赤い陽光は陰鬱さの演出にしかなっていない。
 偽シモナと同じくらい簡単にいくといいんだが。
 とか考えながら、俺は恋文に綴るような歯の浮く台詞を、頭の中で探していた。



 午後八時。
 スリランカ人料理長の作る料理がどうにも口に合わず、夕食後気分が悪くなったので船室を抜け出した。今いるのは、船尾部の喫煙所。長椅子と灰皿、幌があるだけの場所だ。幸いにも、誰もいなかった。
「どうして言わなかったんだい?」
「言ってどうする。追いかけられないし、シモナは復讐できない。余計な心労掛けさせないで黙ってりゃいいだろ」
 ベンチに浅く腰掛け、背もたれにだらしなくもたれる俺の隣にカシマが現れる。足を組み、シガレットホルダーを使ってタバコを吸うその姿は、やはり様になっていた。現実には存在せず、映像を直接脳内に流すやり方はずるい。
「でも、彼はまた現れる。そう言ってたじゃないか」
「その時はこっそり相手をする。あいつが仇討ちしたいって言い出してくれれば良いんだが、そうはいかないよなあ。
 だから、俺が戦う」
「ちょっと、楽観的なんじゃないかい?」
 きつめの口調に驚くと、カシマは珍しく真面目な顔をしていた。
「クラウディアとの戦いで学んだだろう? 君は一人では戦えない」
「確かにな」
 そう、確かに。俺という奴はどうにも、一人ではうまく戦えないらしい。色々考えて、原因は把握したつもりだ。
 俺が拳法を始めたのは、自分を認めさせるためだった。自分が両親の子ではなく、祖父の孫であると。祖父の拳法で強くなれば、それを認めてもらえると思っていた。その辺が、一人でうまく戦えない理由だと思う。誰にも自分を見てもらえないのは虚しい。協力し、反目し、同意し、否定してくれる存在に傍に居て欲しい。
「でもまあ、祖父ちゃんも長い間一人で戦ってたんだろ? 祖母ちゃんが死んだのは俺が生まれるかなり前だったし」
 祖父に出来たのなら、自分もそれを可能にしなければならない。その思いで放った言葉はしかし、否定された。
「違うよ」
「え?」
「言ってなかったっけ? ああ、君が敏幸さんの記憶を見るのを拒んだんだった」
「祖父ちゃんに退魔士の仲間がいたのか?」
「何人かね。もっとも、シモナ君の言う認定を受けた退魔士なんてのはいなかったけど」
 いや、ちょっとまて。となると……
「おかしくないか? 何で御園市での騒動の時にそいつら何もしてなかったんだ? してなかったよな?」
「そりゃそうだよ。死んでるんだもん」
「あぁ?」
「だから、死んでるんだよ。いい年だったしね。
 敏幸さんには何人か仲間がいて、数年前までは一緒に狩りをしていた。でも、仲間は病気とか老衰とかで皆死んだ。そのあと敏幸さんは一人で戦っていたけど。あまり長い時間じゃ無かったってだけ」
 あまり役に立たない情報をどうもありがとう。
「その、仲間達ってさあ、子供とか孫に術を伝えたりしてないのか?」
「してないだろうね。元々、化物なんてそんなに頻繁に出るものじゃないんだし。それに時代の流れで、シモナ君みたいな出張サービスも始まってたし。子孫に辛い思いなんかさせたくなかったんでしょ」
「なるほど」
 呟き、夜空を仰いだ。
 問題は何も解決していないことに気付いて頭を抱えるのはその三十秒後だ。





 げほっ、と。あまりの埃の量に青年は咳き込んだ。
「なんだよここ。蔵じゃないよなあ。裏山の中くらいか?」
 母の言いつけで蔵の掃除をしている時に見つけた隠し通路。それは蔵の床下から山の方へと繋がっていた。
 この山からは石灰が採れると聞いたことがある。懐中電灯で照らす壁が白いのは、石灰を刳り貫いてできたからだろうか。
 八ヶ月前の怪我の所為で、少し足を引き摺るように歩く青年は、とうとうある部屋にたどり着く。石灰の通路の突き当たり、木製の扉には『入ルベカラズ』とあった。
「ゲームじゃねえんだからよお……」
 青年は当然のように、L字型のドアノブに手を掛け、扉を開く。その向こうにあった部屋は、執務室とも倉庫ともとれるような、そんな部屋だった。
 青年は自分の持つ語彙の中に、この部屋を表現する言葉を見つける。
「ああ、資料室って感じなんだ」
 しかし、この部屋は執務室ではなかった。ここを作った者は、倉庫として設計したのだ。
 化物を倒すため、魔を滅するための知識。退魔を行うための道具。それらを格納しておく部屋なのだ。


「退魔……要綱?」


 かつて化物に襲われ、今も尚後遺症に悩まされる青年は見つけた。
 抗う力を。




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